理解力が乏しく自分本位で善悪の基準が分からない煩悩。
よって過ちを正しいと認識し苦悩する業となる。
やっていいこと、わるいこと。そういった基準はどこにでもある。家庭、学校、会社、町会、どのコミュニティでもそれぞれの基準に沿って善悪ははかられる。善し悪しを基準化すること自体が愚癡(無明)なのだが、さらに深まると自分は正しいといって話が聞けなくなる。
拙僧の娘が4歳の時、ネモフィラ(青い花)の鉢を買い与えると、甲斐甲斐しくお世話をしはじめた。
娘「うんしょ、うんしょ、お水をたくさん、あげましょう♪ 毎日たくさん、あげましょう♪」
拙「あまり、お水あげすぎると、根っこが腐っちゃうんだ。これくらいの量がちょうど良いでござる」
娘「へ~、じゃあ、ちょっとにしとこ」
幼いゆえ、執着するものがまだ少ない。聞き分けのいいことだなぁ。
話変わるが、ある時、堺のとある猿山で、猿たち特にボス猿が、客から無断に与えられるエサの食べ過ぎで糖尿になり、毛が抜けボロボロになった憐れな姿が報道された。
テレビの記者
「ここに『エサあげないで』と注意書きがありますが、あなたはどうしてエサをあげるのですか?」
モザイクの人
「うるせぇな、ホラ見ろ、猿が手ぇ出してエサ欲しがっているだろ。オレのこと覚えてるんだよ。あげないと可哀想だ」
やがてボス猿は若い猿に頭領の座を追われ、病は進行して死んだ。
そのモザイクの人は本当に親切のつもりなんだろうか。エサをあげたいという、自分の欲求しか見えていないようだった。 注意書きを見ても、記者に指摘されても、分からないようだった。
◇
極端な例を示したが、大なり小なり、全ての人に【不正智】がある。その時の欲求を、立場と都合と権利で正当化して、止まれなくなって罪を犯してしまう作用が人にはあるのだ。
【不正智】という煩悩は全ての人に備わり働いている。それに対して全ての人が無明(無自覚)である。
他力に照らされ、自己の【不正智】に気づかされることがあっても、自力では煩悩の本質を明らかにすることはできない。その傾向に対策しても、反省は継続しない仕組みになっている。ずっと病んだままの人生だ。
だから、このように煩悩を知らせてくる、自己を見つめ考え直す機会をあたえてくる宗教というものは、太古から存続し続けてきた。宗教は決して絶えない。人間が人間であるために必要なのだ。
信仰があるとは、すなわち我が身を問いかけてくる尊いモノが生活の中にある人生だ。
忘れる子孫のために、祖先は節目の度に必ずやってくる。仏事として説法と共に帰ってくる。その仏の智慧を受け取るのが供養だ。
仏法聞いてもまた忘れるようになっているが心配ない。仏の方が見捨てず働き続け、呼びかけ続けている(他力)。それを仏が念(おも)うと書いて念仏で、南無阿弥陀仏(ナマスアミターユス)というのである。
この身は、見捨てずに呼びかけ続け待ち続けている大慈悲の中を、生きている。
※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。