無間地獄に落ちるような最も重い罪。五無間業ともいう。
※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。
煩悩について、一覧化して少しずつ解説しています。できればあまり知られていない煩悩から、分かりやすく面白く、進めております。
煩悩とはサンスクリット語ではクレーシャと発音し、凡夫(普通の人)が苦悩する原因であるという意味である。
煩わせ悩ませるもの、煩悩。こういうものが自己にしっかり備わっており、自力では克服できません、どうぞお助けください、という名告りを浄土真宗では信心(慙愧)といって大切にしていきた。
如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心(自性清浄)に偶発的に付着したものであると説く(客塵煩悩)。
この煩悩を仏法の智慧によって断滅し、衆生が本来もっている仏性を明らかにすること。すなわち煩悩の束縛から脱出して仏の智慧を得て安楽の境地に至ることが、大乗仏教の悟りである。
菩薩の四弘誓願に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずることが大乗仏教の基本思想であることを示している。
やがて大乗仏教の教理は数百年かけてやがて発展し、浄土思想が大成されていく。
人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。
大切なことは、この一点。煩悩具足の凡夫であることに無自覚であるということだ。
口では「私は煩悩があります」と言ったりするが本心からそう思っていない。煩悩はしっかり備わりはたらいている。表面化していなかったり、気づきがないだけなのだ。