仏法を無視したり、不敬な態度をするような考え方、見方に執着すること。よこしまなものの見方をしていることに無自覚で、自分は正しいと思い込み、悪事をしてもよいと考えてしまう。
愛情には、親が子を想うが故に教育する合理的な愛情と、どのような子であっても許し受け入れ見捨てたくないという無条件の愛情と、二通りある。
「勉強しなさい。勉強して収入を得る力を身につけないと、シャバを生きていけないんだ」という心と、
「何があってもどんな子でも、あなたはわたしの大事な子です」という心。
矛盾した両方の愛情を持っているから親をさせてもらえるのだ。
育児、愛情、考え方、生活、働き方、医療、政治、社会、何もかもがこの矛盾した両側面を内包している。
どちらかに偏ってはいけない。
偏ればすぐにバランスを崩して問題が発生する。
つまずく度に人間の歴史はバランスを求めて反省をくり返してきた。
釈尊が初期に「中道」を説いて弟子に勧めた理由がよく分かる。
六字の御名をとなえつつ
世の生業にいそしまん
真宗宗歌2番
合理的な経済活動だけに偏ってもダメ。博愛主義や慈善活動だけに偏ってもダメ。智慧と慈悲合わせて如来である。
古代からの宗教は、人が本当に豊かな社会を築き共に生きていくためのバランサーの役目を担ってきた。
祖先たちからの尊いバトンである。
わたくしが安価でお寺で法事、お寺でお葬式(お寺葬)を10年程まえに始めたことには理由がある。
要約して言えば、「教えのない儀式は意味がない」からだ。
近頃の葬儀仏事にはバトンを無視する傾向が増えてきて、なんとかできないかと思ってお寺で法事葬儀を始めたのだ。
仏事は仏の教えに遇い、バランスを取り戻す大切な機会である。もともと説教と言うくらいだから、法話や仏の教えはそもそも聞きにくいものなのである。
なぜ聞きにくいのかというと、拙僧で例えれば子どもへの教育である。
「早く歯を磨け、早く宿題をやってしまえ、おまえのためだ」
とまぁ、とにかく早く早く。口癖になっている。
「賢くなりなさい、強くなりなさい、早いのよろしい、遅いのはアカン」
これは、優生思想である。だから偏りすぎると、過干渉、過保護など色々な問題がすぐに出てくる。しかも弱者である子ども側の問題として表出されるので、親は自分を疑う視点を持っていないと、子どもが悪いとだけ思うようになってしまう。
「何があっても、あなたは私の大事な子。いつも勉強ばかり言ってごめんね」
許し受け入れ、求めすぎた自己を反省することも大切だが、放任主義と勘違いしてはいけない。
とことんバランスが大事。
人は自分は悪くないと思いたい動物だ。そして常に病的に損得を瞬間的に判断して、得の多い方へ行こうとしている。
だから利益を出そうとがんばっている人には説教は聞きにくい話なのだ。
僧侶には説教聞く気のない人にこそ働きかける重大な使命がある。それが坊主というものだ。
だから、普段仏法に縁の遠いようなご遺族にこそ、お寺の本堂へ上がってもらい、本尊阿弥陀如来像や親鸞聖人の御影の前で、仏事を勤めていただくことは良き仏縁になる。浄土真宗の本堂は聞法道場というので、場の力も作用して法話も聞いてもらいやすい。葬儀会館ではもちろん努力はしているが、その効果が薄れてしまう。
さて「お客様は神さま」という商売用語があるが、なぜ神なのかというと、金を払ってくれるからである。客の声に耳を傾け、より良い商品、サービスを提供することは発展に繋がるが、これは欲望・煩悩の声を聞くことであると喩えてもいいだろう。ある意味純粋で人間的な考え方だ。
欲望の追求だけでは、人生の真の喜びは得られないことと、苦悩が解決しないことは、人類の歴史が十分すぎる程に証明しているのだが、人間だけでは欲望の追求を止める力が十分に働かないので、宗教はむしろ盛況に今日まで人間によって相続されてきたのである。
現在の葬儀業界では、葬儀社各社の宗教性を排除・縮小したプランやセレモニーが宣伝され、その利用者はうなぎ登りで増加している。客のニーズだけに誠実に応えていこうとすると、そうなるのは当然だ。
業界の人に心得て欲しいことは、その客はお客様である以前に、大切な人を亡くしたばかりの遺族であるということだ。この視点を本当に大切にしている業者と、そうではない業者には明確な差があり、消費者センターへの苦情件数や遺族の満足度に表れている。だからニーズ対応だけではお葬式が意味あるものになりにくい。教えのない儀式に、何の意味があるのだろうか。
人生の問題、特に死は自己満足で解決できない。必ず老いて病になり死ぬいのちを生きているからだ。それがいのちの真実姿であるにもかかわらず、とても都合が悪いことなので、誰もが目を背け、遠い未来か、自分とは関係のないこととして捉えている。死ぬ問題について人間の知性で考えても良い答えは絶対に出ない。なぜなら人間の都合で考えるからだ。
宗教儀式を自己満足で終えてはいけない。その死別は、生きた途切れない導きとなって、呼びかけ続けているのだ。
自己満足セレモニーは死を遺族から遠ざけ、亡き人からの導きを軽んじている。無自覚にその家に流れていた仏法源流を断ち、無自覚によこしまな考え方をして、無自覚に罪を犯している。
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※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。