亡き人の願いとは何であるか、多くの遺族からその声を聞いてきた。
「亡き人(仏さま)から導きを得ることが本当の供養と言うけれど、納得できない。
この人のことが好きだったんです。時が流れた今でもとても辛い。毎日色んな場面で思い出して、泣いたりホッとしたりしている。
【愛着】とは煩悩であり、苦悩の原因であると習った。
確かに煩悩なのだろう。
でもこの気持ちが執着だというのなら、私は煩悩のままでいい。だって阿弥陀さまは煩悩のままの私でいいって南無阿弥陀仏されているんでしょ?」
(女性は数人の子どもを育てあげた)
「父は出征する時、母と弟妹をたのむと私に告げ、幼い私はうんと答えた。
辛い時、嬉しい時、どんな時も戦地で散った父を感じてきた。
失敗と恥の多い人生だった。母には苦労させっぱなしだったし、本当に親孝行できていたのだろうか。弟は私より先に逝き、妹は嫁ぎ先で苦労が絶えなかった。
それでも父との約束が、私の人生と共にあった。
ある時、お寺で亡き人は私たちを案じ続ける仏さまに成って、ただ今も私にはたらいていると聞いて、報われた気がして嬉しかった。
その日一人でお内仏(仏壇)の前に座り、お父ちゃん、お母ちゃんと呼ぶと、涙が止まらなくなった。
きっとまたお浄土で父母や先に逝った方々に遇える。
我が家の過去帳を見れば、ある遠い祖先も親を若くして亡くしていた。
きっと同じ気持ちだっただろう、心底人間が美しく思えた。
このお内仏(仏壇)はそういう物語だ」
(90代男性)
「相次いで家族・両親を亡くし、とうとうお寺に僕1人になってしまった。
力量の乏しい僕1人で住むには寺は広すぎて、重すぎる。
賑わっていたかつての本堂が恋しい。
不安と責任で潰れそうな中、なんとか住職資格を継承し、この寺と教えを守り抜くと誓った。
するとどうだろう、教えと生きる目標と職務、生活のすべてが一致していた。
僕は仏法の中にいた、僕はもう大丈夫」
(家族を相次いで亡くした青年僧)
◇
亡くなった大切な人は、後に残った私たちにどのようなことを永きに渡って願っているだろうか。それは一言で申せば「まことの幸せになってほしい」ということに尽きるのである。そういう祖先聖衆の願いを受け取ることがまことの供養であり、その恩に報いる儀礼を「法事」という。
仏教でいう「仏が我々に願う幸せ」とは、いい暮らしをしてほしいということではないし、苦しいことや悲しいこと都合の悪いこと、これらがなくなることでもない。苦悩の業の中で業から学んで幸せを感じられる人生を送って欲しい、それが亡き人の願い・仏さまの願いである。
例えば、仏教では先のように【愛】は執着・煩悩であり、私たちを苦しめる原因であると教え習う。だからといって煩悩を離れる智慧と修行法を学んでも、私たちにそれができるだろうか。どれほど仏道を深めても、結局私は仏の教えに背いて、有縁のみ大切にする狭き愛情に執着し続けている。
だから愛して失い、嘆いて求めて、その繰り返しを生きるしか道がない。
そのようなどうしようもない業にいる私たちを、赦し、慈しみ、見捨てず嫌わず、無限の刻の中で導き支え続ける仏がある。
「心配するな、大丈夫だ。そのままで良い、おまえは美しい。必ず救う。我が名を称え安楽せよ」
と、大慈悲ですっかり命を包み込んでいる親さまを阿弥陀如来という。
如来は苦悩の輪廻にいる私たちが愛しくてならないのだ。
なんと有難いことなのだろう、拙僧も「これで良かったんだ、南無阿弥陀仏」と救われた気持ちになる時はある。変わらない現実の中で煩悩のまま安楽に住するのだ。しかし継続せずすぐ【失念】してしまう。「まことの幸せ」を忘れる我々のために、仏法に遇う機縁を永くはたらき続ける方々がいる。現代のただ今の私に南無阿弥陀仏をつなぎ、先に阿弥陀(無量寿)の命に帰った人々だ。
『遠く宿縁を慶べ』と親鸞聖人が教えている。
みな共に亡き人の恩に報いていこう。
祖先が示して待っているその先へ。南無阿弥陀仏をとなえつつ、浄土への楽しき旅をともにせん。
釋大信 合掌
祖先は仏事という習慣を護って、日々の忙さのせいですぐに本当の願いを忘れる私たちのために、自ら縁に成って仏法を遺してくれました。毎月のご命日には家族そろってお参りし、亡き人の導きに遇い、南無阿弥陀仏のお心に触れ、共に報恩感謝のお念仏を称えさせていただきましょう。そしてこれからも月参りや仏事を大切にして、共に子孫が仏法に遇える可能性を残していきましょう。恩楽寺はそのために尽力させていただきます。
法事の会場として、恩楽寺の本堂を使用料無料で利用できます。
満席40名で椅子式です。
会食用お座敷(控え室兼キッズコーナー)も用意しております。
駐車場も8台分ございます。
※コロナ予防のため現在は満席20名ほどとしております。本堂は広々としていますので密を避けることができます。
供養に区切りはありません。
仏さまは途切れなく永遠にはたらいておられます。しかし私たちは都合で生きていますので、いつかは法事ができなくなります。
そうした家は本尊と過去帳をお寺に奉納し、お寺に集って法事などの仏事を勤めています。たとえ集う者が途絶えてもお寺での法要は永続します。まずは供養を続けたい気持ちを大切にしましょう。
土日祝日は混雑していますので、ご自宅で法事を勤める場合でも、必ず早い目のご予約をよろしくお願いします。