月参りとは、数百年前から続く平生の仏事で、毎月のご命日に僧侶を自宅の仏間に招いたり、あるいはお寺に参って、お勤めをして法話を聞くことをいいます。
亡くなった大切な人は、後に残った私たちにどのようなことを願っているのでしょうか。それは一言でいえば、「まことの幸せになってほしい」ということです。
浄土真宗の供養とは、亡き人のためにお経を読んであげることではありません。浄土に生まれ仏さまに成った亡き人は、休むことなく常に私たちにその仏の教えを届けておられます。むしろお経を聞かなくてはならないのは生きている私たちの方です。この導きを確かに頂くことがまことの供養で、「亡き人を案じる私が 亡き人から案じられていた」(東本願寺)とはこのことです。古来より月命日はその大切な機縁であるとして、仏教徒は大切に護持してきました。
私たちはいつどうなるか分からない身ですから、月参りができるうちはぜひとも続けましょう。また今まで月参りがなかった方にとって、毎月となると生活習慣に合わないかもしれませんが、お仕事の休みの日にずらしたり、逆にお寺に参らせてもらうなどの形で、これからも毎月のご命日を大切にして、自身と子孫が仏法に遇える可能性を残していきましょう。
恩楽寺の月参りは仏法に遇う大切な機会であるとともに、見守り活動、メンタルケア活動でもあり、とても大切に一軒一軒お参りさせて頂いております。あるお子さんを亡くされたご夫婦は、亡き子に導かれて仏の教えに出遇っていかれました。「あの子はどこに行ったのか、可哀想だった、などと心配していましたが、あの子の方が私たちを案じ続けてくれているのですね。この悲しく愛しい気持ちが私の人生を豊にしていました。あの子が私に仏法と引き合わせてくれています。命日の度にもっと自分を大切に生きるからね、と報告しています」と有難いお言葉をいただきました。亡き人が仏さまという生きた灯火になって、すこやかに前向きに立ち上がっていくご夫婦の姿を、月参りを通して寄り添い見守ることができて、とても心を打たれました。
私たちは健康、家族、学歴、財産、名誉など優劣損得の価値に執着して、「まことの幸せ」を忘れて忙しく日常を生きています。それらへの執着は、老・病・死という諸行無常の中を生きている私たちの身の事実を前にすれば何の役にも立ちもせず、苦悩する原因になります。
自分を含めて、いのちの価値を値踏みするだけの生き方ほど苦しいものはありません。役に立つのか立たないのかなどと、そういった価値(有量)しか見えていない苦難の人生の中で、いのちは量りしれ無く尊いのである(無量寿)という、帰命無量寿如来(南無阿弥陀仏)の真実へ帰る習慣を人生の中で保つように、多くの先達が仏と成って呼びかけ続けています。どれほど罪と悲しみの多い人生であっても、仏さまは諦めず見捨てない光になって、今私たちにはたらいています。
祖先は仏事という習慣を護って、日々の忙さのせいですぐに本当の願いを忘れる私たちのために、自ら縁に成って仏法を遺してくれました。毎月のご命日には家族そろってお参りし、亡き人の導きに遇い、南無阿弥陀仏のお心に触れ、共に報恩感謝のお念仏を称えさせていただきましょう。そしてこれからも月参りや仏事を大切にして、共に子孫が仏法に遇える可能性を残していきましょう。恩楽寺はそのために尽力させていただきます。
月命日とは、月忌(がっき)とも呼ばれ、故人が亡くなった日のことをいいます。例えば4月8日に亡くなれば、毎月8日が「月命日」です。
祥月命日(しょうつきめいにち)とは、故人の亡くなった当日のこといいます。よって先の例えで言えば4月8日が「祥月命日」と言います。
供養に区切りはありません。仏さまは途切れなく永遠にはたらいておられます。しかし私たちは都合で生きていますので、いつかは自宅での供養ができなくなります。そうした家は本尊と過去帳をお寺に奉納し、お寺に集って月命日や法事などの仏事を勤めています。たとえ集う者が途絶えてもお寺での法要は永続します。まずは供養を続けたい気持ちを大切にしましょう。
月命日には決まりごとはありませんので、家族の生活スタイルに合わせ、故人を偲ぶ方法を選びましょう。一番大切なことは、毎日ちゃんと仏前に向き合い、合掌して「南無阿弥陀仏」と称える習慣を護ることです。
ご不明なことがあれば、電話でもメールでも構いませんので、お気軽に何でもご相談ください。
近年は見かけなくなってきましたが、玄関で僧侶が勤行し、家人はお内仏に蝋燭とお線香を上げます。自宅内にお坊さんに上がってもらえない時など利用すると良いでしょう。